とてもいい人生だったよ。
幸せだった。
ありがとう。
みんなによろしく。
(平成29年9月26日午前9時24分)
という言葉を残して、大切な人は遠く旅だった。
代々大工の娘に生まれ、昔ながらの職人の家で厳しく育った。
泣き言は一切言わず、どんな時も前を向いて歩んできた。
その後姿には、いつも凛とした美しさがあった。
勉学好きで進学校に進みたかったが、
大工の娘の進むべき道ではない、と親に反対され諦めざるを得なかった。
嫁に行った先で苦労を重ね、60歳までを働き詰めで過ごした。
60歳からしばらくの間、ある組織のボランティアをしながら働いた。
その当時の写真を見ると、
他の人のために少しでも役立つ仕事に没頭する美しい笑顔があった。
兎に角、働くことが大好きだった。
そして、働けることにいつも感謝していた。
野草が好きで、庭にはいつもたくさん野草を咲かせていた。
今ごろは、秋の七草が野山に咲く姿を求め一人車で郊外に出掛けた。
今朝も、吾亦紅を窓岸に見ながら、秋晴れの中を旅立った。
81歳を過ぎて、故あって備前に赴き、備前焼の麓で数年を過ごした。
既に足が少し不自由で、手押し車を傍らに岡山に一人旅立つ時も、
「大丈夫!」
と笑顔で、新幹線に乗り込んで行った。
いつもこんな風に、自分に与えられた道に感謝しながら、
真っ直ぐに、真摯に進む人だった。
あれから10年の歳月があっと言う間に過ぎた。
30年ほどの間、年に一度は必ず会いに行った。
数時間ほど一緒に笑顔で過ごし、帰り際にはいつも、
「人の役に立つ仕事ができてよかったね。身体にだけは気をつけて!」
と言って笑顔で私を送りだしてくれた。
ここ1、2年は、別れ際に微かな涙を流しながらも、力強く手を振った。
これが今生の別れかも知れない、とお互いいつも無言の内に覚悟をしてきた。
そして、ついにその日が訪れた。
遺産は、身をもって教えてくれた何処までも真っ直ぐで真摯なその生き様である。
自分のこれからの人生も、その教えの通りに歩んでいこうと思う。
ありがとうございました。
心から感謝しています。